文章を読むと脳内で声が聞こえる人と聞こえない人がいる?
文章を読むと脳内で
声が聞こえる人が8割 聞こえない人は2割いるようです。
私は、文章を読むと脳内で声が聞こえるタイプです。
自分自身のことなので、それが普通だと思っており、意識することはありませんでしたが、聞こえない人がいるのに驚きました。
「聞こえない派」は、文字を読むと頭の中に意味が入ってくるとのこと。
「聞こえる派」の私は、聞こえない感覚がわかりませんでしたが、意識してみると、声が聞こえる文章と聞こえない文章がありました。
①「今日は、暑い日でした。アイスを買って食べました」
⇒聞こえます
②I appreciate you arranging your schedule.
⇒聞こえません
③領収書:ガソリン代 9500円
⇒見えません、聞こえません
私は本や文章を読む時は声が聞こえますが、数式や英文では声は聞こえなくなりました。言語の種類や用途によって、脳内で切り変えが生じている様です。
発音記号を知らなかったり、音声で発したことない文章や記号は聞こえないでしょうか?
この違いは、脳の使い方にあるのとの説があります。
脳は、右脳と左脳に分かれていて、役割や得意分野が違います。
・左脳「論理的思考」:言語、計算、分析
・右脳「直感的思考」:イメージ、芸術性
<日本人は「虫の声」が聞こえる?>
夏の夜に虫の声を聞くと、懐かしさや安らぎを感じる人も多いのではないでしょうか。虫の声は、日本の古くからの文化にも深く根付いています。
の声は、日本の古くからの文化にも深く根付いています。例えば、夏の夜に虫の声を聞くと、恋をしたり、幸せになったりするという言い伝えがあります。
また、虫の声は、日本の詩や歌にもよく登場します。虫の声は、日本人にとって、自然とつながり、安らぎを得ることができる大切なものです。
しかし、虫の声が聞こえるのは日本人とポリネシア人だけなのです。
外国人は虫の声を機械音や雑音と同様に右脳で処理しするため、外国人は虫が鳴いていても、騒音として処理するために聞こえていません。
日本人は左脳で言語として聞いているので、日本人は虫の音を「虫の声」として聞こえるのです。
以上の事例から推測されることは
左脳で文字を言語と捉えると脳内に声が聞こえる
右脳で文字をイメージと捉える声が聞こえない
これなら説明が付きそうですが、脳内で聞こえる声は正式な学問として研究されておらず、確かなことはわからないそうです。
自分で意識していませんでしたが、読む対象に応じて声が変化しています
他人が脳内で何の声が聞こえているのか興味があります。
国家・宗教観、性別、人種、年齢、経験、趣味でも違ってくるのではないでしょうか。暇な学者が研究して法則を発見してほしいですね。
将来は脳内の声を音声にして会話したり、機械を動かせる未来がくるかもしれません。
「聞こえない派」になるメリットとは何でしょうか?
基本は「聞こえる派」ですが、訓練によって「聞こえない派」になることは可能です。
サラリーマンにとって気になるのは、「聞こえる」「聞こえない」で仕事の能力に差がでるのか?ということです。
聞こえない派のメリット:速読が可能
脳内で声が聞こえるか否かは読書スピードに繋がります。
脳内で声に変換して本を読むと、平均読書スピードはには400~800文字/分です。脳内で声が「聞こえる派」はこの限界を超えることはできません。
「聞こえない派」は右脳内で単語をイメージとしてとらえるため、読むスピードは圧倒的に速くなります。速読を訓練した人は10000~20000文字/分が可能です。
入試や資格試験に有利
難関大学合格者の読書スピードは、平均読書スピードの3倍以上というデータがあります。
速読のメリットは、読む時間を短縮し思考の時間を増やすことが可能です。
大学入試や資格試験において、限られた時間内に正しい答えを導き出すには、速読が出来る=「声が聞こえない」派が圧倒的に有利で能力が高いといえます。
「聞こえない派」の速読は仕事に有利か?
「仕事ができる人=速読ができる人」とは必ずしも結び付きません。
30代の頃はビジネス書、自己啓発やハウツー系の本を読み漁りましたが、ビジネススキルに「速読」が必須であると紹介する本はありませんでした。
仕事でプラスに発揮される職種(事務系、翻訳系)が少ないからでしょうか?
もちろん、あってマイナスとなるスキルではありません。速読ができることで、事前の資料の確認等の予備知識を得る時間を大幅に短縮することはできます。
しかし、一般的なサラリーマンは既存の文字化された大量の情報をインプットして処理する能力より、現状分析で問題点を洗い出し、方針や戦略を判断し、優先順位を明確にし、周りと調整して、計画的に実行できる問題解決能力やマネジメント能力を評価されます。
PCのタイピングと同じで、タイピングが速いと資料作成の作業時間を減らせますが、資料の内容が良いものなのかは別次元の問題です。
社会人になってからは、国家試験に挑戦する人以外、無理に訓練して会得する必要もないというのが私の感想です。
昭和の少年期の思い出
昭和の子供時代、ファミコン、ジャンプ漫画の黄金期の時代であった。
縄文時代になかった貧富の差が、稲作をはじめた弥生時代で生まれたように、昭和55年代後半は、クワガタやザリガニをとっていた狩猟時代から、ファミコン、漫画などの家庭の経済力によってスクールカーストが決まる時代に突入していった。
貧乏な子達は苦行の時代を強いられた。
貧乏な私はファミコン、漫画を買ってもらえず、友達に頼るしかなかった。
ファミコンは友達の家でしかできないので、ファミコンを持っている友達におべっかを使い、交代でやらせてもらうことになる。
車を運転する時に人間の本性が出ると同じで、ファミコンを持ってる奴は残虐な子供の本性を発揮した。
交代でプレーしているのに、自分が序盤でミスするとリセットボタンを勝手に押しまくる。
「ミスった 今の無し!」
プーチンも真っ青の独裁政治だ
自分が満足しないと代わってくれない。
数十分待って回ってきたとしても、操作に慣れていない私の命は数秒で終わる。
「スーパーマリオ ブラザーズ2」では最初のクリボーに瞬殺された。
「テレッテ~テッテレ~♪ バグ!」軽快な音楽から始まり⇒「てってーてれれてれれーてれれー」数秒で悲しい音楽が流れて交代。
「スパルタンX」は最初の10秒で、左右から襲ってくる掴み男に取り囲まれてゲームオーバーになる。身動きの取れない状態で、ライフが削られていくのをじっと待つのはホラーでしかない。
では、漫画ならどうか?
私の子供時代は「北斗の拳」「キャプテン翼」「ドラゴンボール」「ジョジョの奇妙な冒険」と誰でも知っている人気漫画のオンパレードで、週刊少年ジャンプの発売日がくると友人たちは我先にと読んでいた。
私はジャンプを読む時は、お金持ちのN君の家に遊びに行っていた。
私 「ジャンプ読んでもいい?」
N君「いいよ!」
私 「ありがとう!」
N君「じゃぁ、一緒に読もうよ!」
私 「えっ・・?どういうこと」
N君「だって、遊びに来てるのに別行動っておかしくない?」
たしかにN君の言う通りだ。ジャンプが目的で遊びに来たとはいえない。
N君は私の横に来て、一緒にジャンプを読みだした。
N君「パス! パス!」
N君「翼くんいったーボレーシュート!」
私「えっ、何で横で声出して読むの?」
N君「どこ読んでるのかわからないだろ?」
私「たしかにそうだけど・・・」
「ゴゴゴゴゴゴゴ」
「オラオラオラァ」
(うるせえよ)
(ジョジョではやめろよ)
友達に頼る時に生じる煩わしさが嫌になってきた。
ファミコンもしたいし、漫画も読みたい・・
「だが、断る」
友達に誘われても遊びに行かなくなった。
それから、ひとりで本を読むようになった。図書館を利用して、芥川龍之介、星新一のショートショート、アガサ・クリスティーの推理小説を読み漁った。
本を読む時は、情景を想像して、オチに期待しながら、登場人物が脳内で舞台に立って演じているかの如く文字を噛みしめて読んでいた。
本は煩わしさを感じず、ひとりで満喫できる。
今は、小説を読まなくなったが、本を読む基本的な楽しみは変わらない。
私は「聞こえる派」で十分だ。
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