笑いはどこから生まれるのか?
人を笑わせるのは本当に難しい
大学時代に落語研究会で、学生落語家として公演活動をしていた経験から、観客(面識のない他人)を笑わせるのは至難の業だと素人ながら痛感した。
老人ホームや公民館で公演をしたことがあるが、ほどんどのお客は笑わない。クスッとはしてくれるのだが、大笑いしてくれたのは4年間で1回きりだった。
会社の飲み会でも落語をさせられたことがあるが、笑う笑わない以前に、最後まで聞いてくれる人はいなかった。
笑いは緊張の緩和から生まれる
これは、大学時代に私が落語の演目をする際に参考させていただいた、桂枝雀の有名な言葉である。
桂枝雀の落語をテープから聞き取って、レポート用紙に描き写し一語一句覚えていた。
桂枝雀を選んだ理由は、桂枝雀の落語が一番面白くて「自分もやってみたいと」憧れたからだ。
落語の前には「枕」があり、落語をする前の導入部分の小話として披露される。
桂枝雀は枕で「緊張の緩和」をよく話されていた。
私は吉本新喜劇が好きだった
「パチパチパンチ」
「今日はこれくらいにしといたる」
「神様~」
「そんなんできるんですか」
レジェンド芸人の定番ネタは今聞いても面白い
吉本新喜劇は個々の芸人がネタを単発で披露しているわけではない。寸劇の緊張と緩和の狭間に芸人のギャグを効果的に織り交ぜている。
ドタバタのお約束ギャグが飛び交うユーモラスなイメージだが、吉本新喜劇の演目内容は身に詰まされる話が多い。
結婚を親に反対されているカップルの話や、借金をして子供を捨てた親が戻ってくる等、家族の絆や格差社会への抵抗を訴える重いテーマばかりだ。
社会の不条理に真正面から立ち向かい「人としてあるべき姿、あるべき行動とは何か?」を観客に問いかけている
落語と吉本新喜劇はストーリーの中で緊張と緩和を生み出し、「哀しみの中にこそ笑いがある」と訴えていた
私は今の吉本新喜劇は見なくなった
ファンに怒られそうだが、小藪が吉本新喜劇に出た頃から見るのをやめてしまった。
体や表情で演技するわけでもなく、小藪の一本調子のひとり話芸や、イジリ芸が主流になった時、吉本新喜劇の伝統が失われたと感じたからだ。
この喪失感は上手く表現しずらいが、TV芸人の笑いに近くなったと言えばいいのだろうか?
TVの笑いには、ストーリー性やタメがなく、瞬発的で意外性のある言葉のチョイスで笑わせることが多い。
また、TV芸人は色々な配役を演じているのではなく、「おネェ芸人」「スベリ芸人」「クズ芸人」等キャラクターを固定させており、芸人はキャラに合った言動を要求され、「行動」ではなく「人そのもの」をイジられる。
私は、吉本新喜劇にそんなことは求めていない。
TVのお笑い芸人が簡単に緊張の緩和を生み出す方法として、ドッキリや先輩後輩の上下関係を誇張する手法を頻繁に使用する。
その緊張とは恐怖でしか表現できないのが辛い
社会のモラハラ、パワハラを見て何が面白いのかとは思う。
どの笑いが高尚か否かと問われても答えは出ない。
単に私が嫌いなだけだ。
大学時代の思い出の落語
私が3回生の時の大学祭での出来事であった。
大学祭で落語の公演をした時、お客さんは10人程度で、珍しく家族連れが来ていた。
お父さんは年配の方で、子供は小学生の女の子2人。
その時のお題目は、桂枝雀の「青菜」である。
植木職人が、御屋敷のご隠居の計らいで高価なお酒「柳蔭」やツマミを御馳走になった。植木職人が家に帰ってから、近所の友人相手にやりとりを再現したことで巻き起こる珍騒動を描いたものだ。
落語は元本があり、本来は誰がやっても同じなのだが、桂枝雀のオチは現代風にアレンジされており、「そんな青菜(アホな)」がオチであった。
大学祭で来るお客は、落語を好きで見に来る人は誰もいないし、20分最後まで聞くお客は1割にも満たない。終始つまらなそうにして、笑わないのが普通である。
最初に笑ってくれたのは小学生の女の子だった。声を出して笑ってくれたので、仏頂面だった他のお客さんも笑い出した。
その子が楽しく笑ってくれていたおかげで、大爆笑が何回も巻き起こり落語が終わると全員が拍手をしてくれた。
今までこんなことはなかった。
舞台袖に戻る際には興奮して胸が熱くなった。
あれから20年。他の落語はほどんど忘れたが「青菜」だけは一字一句覚えている。
まとめ
緊張の緩和とは?
笑いは感情ではなく理性である
泣く、怒るは感情で発生するが、笑いは理性で発生する
人は笑えない状況だと、決して笑わない
笑いには許可が必要で、笑うには資格がいる
面白いから笑うのではない
笑うから面白いのだ
笑いは哀しみの中にある
よって天国には笑いは存在しない
笑うんかーい! 笑わへんのかーい!
笑わへんのかい・・
わーオィッ わーオィッ
そこ毛細血管いっぱい詰まってるところ
ワッキー
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